小説家鈴木輝一郎のはてな日記

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最近「書きあげただけ巨匠」を見かけなくなった(鈴木輝一郎小説講座雑感)

2017年10月28日の鈴木輝一郎小説講座のレジュメづくりに専念。作品講評3人ぶんとゲスト講師・大空なつきさんへの質問のとりまとめ。

作品講評、今月は「初診」が2人、「再診」が1人。まあ、あわせて3千枚の原稿をチェックし、だいたいの講義のテーマを決めてゆくわけだ。
以前は「書きあげただけ巨匠」がけっこうな割合でいた。長編を脱稿しただけで文豪になったと勘違いするケース。

これは、
1)周囲に長編を書き上げる人がほとんどいないから自分の立ち位置がわからない
2)長編を書き上げる小説的体力がないので、書き上げるだけで全力をつくし、「自分はすごいと思いたい」という願望
といった理由がある。

まあ、そんな具合に「書きあげただけ巨匠」は自信に満ち満ちているのでなかなか言動が面白い。

いちおう、鈴木輝一郎という小説家は読者からみてどの程度のポジションにあるかぐらいの自覚はあるんだが、「書きあげただけ巨匠」はモロに読者目線で見下してきたもんでござんした。

作品講評のとき、「初診」の人はそれまでの原稿のストックを何本か読むわけだが、講評のとき、そのストック原稿のツカ(原稿の束の厚さを横から)を動画で写すようにしてる。(もちろん、表紙だとか名前だとかがわからないように細心の注意をはらってます)。
これはけっこう効果があるかな? 「新人賞の応募者全員が長編を締切まで書き上げて投函している」って当たり前の事実は、頭でわかっていても割と実感できないんですが、目の前に次々と未発表の原稿の束を積み上げられると「自分の作品は書きあげただけ」とわかるみたい。

で、この1~2年、そうした「書きあげただけ巨匠」はあまり見なくなった(いないわけではない)。
作品講評のやりとりは素直だし、人の話にも聞く耳がある。鈴木輝一郎小説講座は作品の中身について細かくあれこれ言わないことにしているんだが、以前はそのことについてけっこう不満を言われたものなんだけど、最近はその不満もほとんど聞かれなくなった。
まあ、ぶっちゃけた話、「この人、チャンスさえあればプロでやってゆけるよなあ」って人が本当に増えた、ってことでもある。

まあ、そうして思うのは、「プロになったらやってゆける人」と「面白い作品を書く人」はかならずしもイコールじゃない、ってことかなあ。
才筆を感じさせる人は、どうしても取材力だとかコミュニケーション能力に難点があって、(取材力やコミュニケーション能力に難点がある人がすべて才筆を感じさせるわけではない。ただの「いろいろ入ってる人」であるのがほとんどだが)そういう人はプロには向いてない。

鈴木輝一郎小説講座でできるのは新人賞を受賞する程度の作家は育てられるけど、スターは育てられない、ってことだわさ。

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